大阪半生菓子協同組合

大阪の半生菓子が誕生したのは明治中期のことです。半生菓子という名称もありませんでした。当時まだ潤沢に砂糖が出回らず和菓子店そのものの数が限られていました。

10年の修業を終えても、のれんわけの条件は整うものの独立出店は大変難しいものでした。菓子づくりの腕は十分ながら店を持つことができない菓子職人は、自宅かあるいは小さな作業場を手に入れ、日持ちのするそれは豪華な進物菓子をしつらえました。それは桐の箱に和紙が敷かれ、中には菓子と言うよりも芸術品のようでした。最初は柿渋紙で、すぐに出始めたセルロイドの薄いものに小刀で菓子の表面に季節に因むもの、縁起ものなどを型取りし、ホンザン(フォンダン)や食紅で刷り込むのです。多色刷りです。デザイナーがまだ存在していなかった時代、大阪では四条流の絵描きさんにデザインを依頼するのです。菓銘も古今集などから優雅な名を拝借し、菓子を密封することが不可能でしたから、日持ちのする独特の餡を考案していました。しかし、店を持たない人たちはこの芸術的菓子を老舗の裏口から納品させて貰うのでした。一方、大正時代ともなれば勃興してきた菓子問屋を通じ菓子小売店への販路を獲得した人たちは、桐の箱ではなく、ばん重に小物の半生菓子を並べ、問屋の店頭に並べて販売していました。この頃になると砂糖も出回り、日持ちなど条件もよくなりました。優雅なネーニングが半生菓子の特徴でした。きぬた、宿り木、桃山など数えきれないほどの銘菓ができました。関西では仲物と称していたこともあり、両者が菓仲会として結束、第二次大戦以前に40名程の会員を持つ組織となっていました。戦後砂糖の配給が協同組合に割り当てられることになり、半生菓子の定義(水分が30%以下など)を京都の業者と話し合って、これを契機に大阪半生菓子協会を設立しました。(昭和15年、農林省告示で半生菓子の名称が登場している。)大阪半生菓子研究クラブも設立し、人材育成に務めました。

大阪府菓子工業組合に入会、昭和54年3月に協同組合に改組後も頼母子講を毎月続け、毎回全員出席で意気軒昂、切瑳琢磨を続けていました。平成が終ろうとする現在でも多少の会員減少をみてはいますが、相互信頼は揺らいでおらず、会員25名、明日の大阪菓子業界に大いに寄与する心意気です。